ルーブル美術館展ー17世紀ヨーロッパ絵画ー [展覧会]
いきなりで申し訳無いが、(自分にとっては)つまらなかったなー。という感想である。
しかし、つまらなかった事に気づけた事自体は、かなりの収穫であったと言える。
自分が絵の中に視ているものが、よーーく分かった。という点で本当に行って良かったと思う。
今回の展示は、副題にあるように17世紀の絵画の展覧会である。
この当時の絵画というのは、簡単に言うとパトロンの為の絵。なのだ。
だから、絵というのは、依頼通りに描く事が大事とされていて、自己主張などを入れる余地は
ほとんど無い。
私が、絵に惹かれるのは、この「自己主張」の部分であり、そういう事でこの時期の絵画には
全く惹かれなかったのだ。
ただ、勿論実際には、その自己主張というか、自我が少しあるもの。またテクニックとして、
頭に抜けているものというのは、きちんと心に届く事も知っている。
例えば、今回出展があった画家の中では、フェルメール(しかし今回出展されている作品はそれには当たらないと思う)、ハルス、ラトゥールなんかは、そんな感じがある。
実際、今回は、ハルスとフェルメールを観に行ったようなもんだった。
ただ、少しは違う部分にも期待はしていったのだが、やはりあまり収穫は無かった。
その期待していたハルスとフェルメールも想いが強すぎたようで、あまり入ってこなかった。。
しかし、展覧会自体は、ルーブルの縮小版のようで、決して悪くは無いと思う。
ルーブルの絵画部門に関して言えば、これの100倍位の拡大判みたいなもんだからね。
しかし、100倍なので、あまり伝わらないと思うけど。。
実際、フェルメールを持ってこれたのは、かなり凄い事である。
この絵は、ルーブル美術館のリシュリー翼を示すアイコンになっているんだから。
これと対をなすドゥノン翼のアイコンがモナリザなのだから、その凄さが分かると思う。
日本は、今正にフェルメールの巡回期間に入ってますからね。是非、この勢いで
「真珠の首飾り」やら「天文学者」やらも来て頂きたいと思う。
さて、一番始めに書いたつまらなかった事に気づけた事について、少し文章を残しておこう。
自分が絵から感じたいのは、作家の自己のエネルギーなのだ。と今回はよーく分かった。
この時期の宗教画や肖像画には、エネルギーは、全く入れ込まれていない。
実際、職人的な立場で仕事をこなす。というスタンスで絵を描いていたのだろう。
それに対して、私の好きな印象画の画家達は、絵を作品を抜きん出たものにする為には、
自己主張を描く事しか無かったに違いない。17世紀のようにパトロンが居て、絵を
描けるような環境では無いのだから、それは必須となる。
そうしないともう実際に食えないのだ。
それをやったからと言って、食えるかどうかは分からない。そんなギリギリの中で、
己をカンバスに叩き付けてきたものが、画として表れている。そこに惹かれるのだと思う。
そのエネルギーを確実に残す事が出来たのが、ピカソであり、
生涯その自己を表す為に苦しみ抜き死んで行った、その念が強く残っているのがゴッホだったりする。
そんな個人のエネルギーそのもの。に私は惹かれるのだ。
ただ、そんな事も多くの物に接し、感じないと、分からない事だし、
齢をとる、環境が変わる事で、また見方は変わって来る。
そういう経験、変化を積む事が、人生であり、成長なのだと思う。
ルーブルは、正に「ルーブル」というジャンルで、この世の中に君臨する。
芸術に置ける基本であり、立ち戻れる場所であると思う。
そのような大きな懐を持つ場所がある事自体は、ここで描かれている神達に感謝をしなければと思います。
しかし、つまらなかった事に気づけた事自体は、かなりの収穫であったと言える。
自分が絵の中に視ているものが、よーーく分かった。という点で本当に行って良かったと思う。
今回の展示は、副題にあるように17世紀の絵画の展覧会である。
この当時の絵画というのは、簡単に言うとパトロンの為の絵。なのだ。
だから、絵というのは、依頼通りに描く事が大事とされていて、自己主張などを入れる余地は
ほとんど無い。
私が、絵に惹かれるのは、この「自己主張」の部分であり、そういう事でこの時期の絵画には
全く惹かれなかったのだ。
ただ、勿論実際には、その自己主張というか、自我が少しあるもの。またテクニックとして、
頭に抜けているものというのは、きちんと心に届く事も知っている。
例えば、今回出展があった画家の中では、フェルメール(しかし今回出展されている作品はそれには当たらないと思う)、ハルス、ラトゥールなんかは、そんな感じがある。
実際、今回は、ハルスとフェルメールを観に行ったようなもんだった。
ただ、少しは違う部分にも期待はしていったのだが、やはりあまり収穫は無かった。
その期待していたハルスとフェルメールも想いが強すぎたようで、あまり入ってこなかった。。
しかし、展覧会自体は、ルーブルの縮小版のようで、決して悪くは無いと思う。
ルーブルの絵画部門に関して言えば、これの100倍位の拡大判みたいなもんだからね。
しかし、100倍なので、あまり伝わらないと思うけど。。
実際、フェルメールを持ってこれたのは、かなり凄い事である。
この絵は、ルーブル美術館のリシュリー翼を示すアイコンになっているんだから。
これと対をなすドゥノン翼のアイコンがモナリザなのだから、その凄さが分かると思う。
日本は、今正にフェルメールの巡回期間に入ってますからね。是非、この勢いで
「真珠の首飾り」やら「天文学者」やらも来て頂きたいと思う。
さて、一番始めに書いたつまらなかった事に気づけた事について、少し文章を残しておこう。
自分が絵から感じたいのは、作家の自己のエネルギーなのだ。と今回はよーく分かった。
この時期の宗教画や肖像画には、エネルギーは、全く入れ込まれていない。
実際、職人的な立場で仕事をこなす。というスタンスで絵を描いていたのだろう。
それに対して、私の好きな印象画の画家達は、絵を作品を抜きん出たものにする為には、
自己主張を描く事しか無かったに違いない。17世紀のようにパトロンが居て、絵を
描けるような環境では無いのだから、それは必須となる。
そうしないともう実際に食えないのだ。
それをやったからと言って、食えるかどうかは分からない。そんなギリギリの中で、
己をカンバスに叩き付けてきたものが、画として表れている。そこに惹かれるのだと思う。
そのエネルギーを確実に残す事が出来たのが、ピカソであり、
生涯その自己を表す為に苦しみ抜き死んで行った、その念が強く残っているのがゴッホだったりする。
そんな個人のエネルギーそのもの。に私は惹かれるのだ。
ただ、そんな事も多くの物に接し、感じないと、分からない事だし、
齢をとる、環境が変わる事で、また見方は変わって来る。
そういう経験、変化を積む事が、人生であり、成長なのだと思う。
ルーブルは、正に「ルーブル」というジャンルで、この世の中に君臨する。
芸術に置ける基本であり、立ち戻れる場所であると思う。
そのような大きな懐を持つ場所がある事自体は、ここで描かれている神達に感謝をしなければと思います。
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