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フェルメール「地理学者」とオランダフランドル絵画展 [展覧会]

フェルメールが来てると言うので行ってきた。
ここに記述する事ではないのだけど、東日本大地震以降、
あらゆるスケジュールが吹っ飛んでしまった。
吹っ飛んだと言うか、優先順位の変更と、それこそ生き方の見直しみたいな事まで発展していた。
自分の中で絵画鑑賞は、とても大事な事だと思っている。
それ故、観る時は、文字通りの心構えをしてから行くものだと思っている。
その心構えが飛んでしまっていたのだと思う。
ま、飛ぶのは当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
約50日経て、自分の継続的な震災に対する心構えと
生活を戻すことが一段落する目処が立ってきたので心構えが出来てきた。


ざっくり展覧会全体の感想から。
とても質の高い作品が揃っていて、充実した展覧会になっていた。
今回のそもそもの発端は、フランクフルトのシュテーデル美術館と言う所が、
が全面改装の為に実現したとの事で、
この美術館の持つ17世紀オランダ絵画をほとんど借り受ける事が出来たらしい。
つまり欧州の美術館のワンフロアをそのまま持ってきたようなもので、
このような事が無ければ、ここまで質の高い作品を日本で揃える事は不可能である。
前にブログで書いたけど、ひとつのテーマで日本で海外の画家の作品を集めるというのは、
無理だと思う。お金の問題より、単純にそんなに集められる訳が無いのだ。
通常、他の美術館で常設展示されているものを持って行かれてしまうと、
その美術館としてもウリが無くなって困ってしまうから。
そして、そういう質の高い作品は、欧州の美術館にばかりあるのである。
元々、そこにあったんだからしょうがないという事である。
そして、そういう質の高い作品は、海外に流出させてはいないのだ、あちらの美術館は。
文化的に美術に対する考え方が違う。

今回は、そういう意味でとてもラッキーな展覧会である。
それぞれの作家の脂の乗った作品群が並んでいる。この時代の作品の質の高さというのは、
正にテクニック、そして集中力と使っている材料の質。だと思う。
作品から感じる緊張感と冒険心と言うか。
特に静物画の作品には、そのような雰囲気を感じた。
卓越したテクニックとその中で新しいものを取り入れようとする好奇心が溢れていて
とても愉しい作品が多い。
人によっては、虫や狩猟の獲物が好きでは無いというかもしれないが、風俗画を含む
文化の違いだろう。個人的には、文化と考えあまり気にならない。
むしろその違いがある事を楽しく感じる。
果物、草花、食器、装飾具を精密に描き、構図を考え抜き、そこに+αの遊びを加えて
絵画として完成させている。なんと裕福な時代だったのだろう。
色々な想像をしてワクワクする。
特に面白いと思ったのは、「森の地面の絵」と呼ばれるジャンル。
その通り、地面にいきなり果物や食器などが無造作に置かれているという静物画なのだが、
背景に主の家の門が描かれていたりして、絵の依頼主の階級が分かるように
なっていたり工夫がされている。置かれている食器も、この時期のオランダの繁栄が
色濃く分かるようなモチーフが描かれているのも興味深い。
絵の中には中国の陶器が描かれていて、その裕福さを象徴していると共に
ここに文化的交流があった事にも興味が及ぶ。
第一、きちんと陶器に描かれている柄が中国の風景だったりするのだ。
その他狩りの獲物が描かれている静物画も動物と共に狩りの道具などが精密に
描かれていて、その頃の武具、装具が分かって面白い。

では、作家の話をば。
まずは、今回の目玉フェルメール「地理学者」。
以前、ルーブル美術館に行った時、これと対になる言われている「天文学者」
を観ていたので、やっと二つを観る事が出来た。
いつか、対に飾った展覧会をやって欲しいものである。
本物を観て、やはり感じるのは、光の白の美しさだ。この絵の中では特に
学者の前に置かれた地図の、光がそこに見えるような白さである。
そして、その地図からの反射光も受けたかのような学者の顔の光の影だ。
また、着ている洋服にかかる光の色も(あいかわらず)秀逸である。
この絵を観ていると、フェルメールが布に青を用いる事が多いのは、この光源を
考えた上でのチョイスのような気がする。青に白、そして黒、青を挟んだ白と黒のコントラスト。
光を美しく魅せる色が、フェルメールの青なのかもしれない。
今回面白いのは、窓の部分が高く取られていて、タンスの上にある地球儀やその先の地図にも
光が届いている事である。光が当たる事でモチーフを繊細に描けると共に、
文字通り、この部分にも光が当たり、絵の主人公である地理学者の尊厳を讃えているようにも感じる。
そして、この絵のハイライトは、主人公の表情だろう。
目線がどこにあるか分からない、だけど本当にこの瞬間、絵のように静止をしていて
何かヒラメキの瞬間を迎えたような、次の瞬間には地図にまたはノートに何か大切な
発見を記述し始めるような、その決定的瞬間を写真のように切り取っている所が、
この絵を贈る相手への尊敬と、相手への想い(学者にとってのヒラメキの瞬間は最高の瞬間でしょ)
が感じられて、その愛情に素直に感動する。

えらく長文でフェルメール賛辞をしてしまったが、実は今回の展示で私が一番感動したのは、
レンブラントの「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」であった。
これは決して絶対値での評価ではなく(第一、絵画の絶対的評価って何だろう)、
今まできちんとレンブラントを観て来ていなかった自分の中での振り幅の大きさである。
レンブラント、、、今までも小品は数点生で観ているし、肖像画も数点観ているはずである。
(光と影の使い方が巧い)という枕詞により肖像画を観た時もなるほどな!と分かっていたような
フリをしていただけなのだと思う。
そして繰り返しになるが、傑作はなかなか日本では観れないのだ。
今回のこの絵は、まさしくレンブラントの傑作の一品だと思う。
物語の一遍を切り取った作品という事であるが、その物語が動く。正にその瞬間の空気と気配を
卓越したテクニックと演出で描き切っている。
中央の王が怒り出す瞬間なのであるが、この王様の表情、手に持つ槍への力のかかり具合、
それをドラマチックに魅せる構図と光の当て方、色の美しさ、非の打ち所の無い傑作である。
光は王様の上半身全体にかかっており、ターバンやペンダント?の装飾を精彩に描き、
王の威厳を表しながらも、決して精彩ではない顔の表情によりまるで気が放れているかのように
怒りを表現する。構図としてはその槍を握る手を中央に持って来て、まるで手が震えて
いるのさえ見えるほどこちらは精彩に描いている。
構図、描き方と光のコントラストで、ここまで感情を描き切った絵にはなかなかお目にかかれない。
つまりレンブラントとは、そういう事なのだろう。
光、構図、色、精彩さを駆使して絵の中に物語を籠められる画家なのだ。
いわゆる物語の部分は、生で観たほうが確実に伝わる確率が高い。
特に名前を聞いた事がある画家などは、先に先入観をもってしまっているから。
テクニックの上に、絵から放たれるパワーを描ける画家にこそ私は惹き付けられるのだ。

さてもう一点。
ニコラース・マース「黒い服の女性の肖像」と言う絵も美しかった。
これは、ひとつの点に特に感動した。黒の美しさである。
この頃のオランダの正装がそうなのだろうが、黒い服を着た肖像画が多かったのだが、
その中で、この絵の黒の美しさは群を抜いていた。
もしかしたら実際の洋服の生地が、このドレスのものが格段に美しかったのかもしれない。
(この絵のドレスは説明によるとフランスの影響を受けているとある。)
ただドレスが美しかったとしても、あのように描けるものなのだろうか。。。
比べられる黒が、この会場には無かった。あんまり好きな言い方じゃないけど奇跡の色合い
だった。ニコラース・マース、覚えておきたい。

他にも、好きな画家だと思っているフランスハルスの肖像画もあったのだが、
笑顔の画家の絵としてはちょっと固いかな(もちろん依頼主の意向でしょうけど)
という感じだった。全体として、他の肖像画より明るくて素敵なんですけどね。
また、スナフキンのようなマイケルのような大きな帽子を被った赤が基調の肖像画や
シュールリアリズムのようなちょっとした歪みが面白い肖像画もあった。

とにかく全体的に美しく楽しい作品が多かった。
このような展覧会に出会える機会は、本当に少ないと思うので、堪能させて貰った。
フェルメールがコレクションにある事もあり、展覧会の宣伝としてもかなり成功したのであろう。
仮にフェルメールが無かったとしても、行きたいと思える展覧会だったと思う。
ただ、なかなかいい展示会だと分かると言うのは、本当に難しい事なんだろうなとも思った。

個人的には、フェルメール全点踏破への気持ちが高まりました。
これは、やっぱりやらないとね♪
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ドガ展 [展覧会]

好きな、どんなものでもそういう事が多いのだけど、「何故好きなのか」というのを説明出来ない。ものすごく多角的な事を一瞬で判断して摑まれる(掴む)からで、それはとても感覚的なものにならざるを得ない。勿論、その直感は外れる事もあるし、時が経つにつれ変わっていく事もある。

ドガに関しては、摑まれたのが最近だったので、自分の中で言葉に落とし込めていなかった。オルセー美術館での一番の収穫が彼で、それ以来の再開だった。

今回の展覧会で、その何故を言葉にする事が出来たので、ここに記してみたいと思う。

それは、単純であるが、彼の視点だった。
それも3つの視点である。
ひとつめは、その絵画的手法としての視点である。彼の絵は、私にはとても被写界深度の浅い
レンズで捉えられたように、ピントが合う場所が物凄くピンポイントで描かれているものがある。
それこそ一点、その箇所にだけピントが合い、後はボケたような描き方をしている。この緩急の付け方が画面にとてつもない緊張感を生んでいる。この緊張感が、他の画家にはない絵の美しさを際立たせているのだと思う。勿論、ピントが合っていないボケた箇所も決して適当では無い。そこにも秩序が存在していて、そのぼかし方が絵全体の美しさをまた際立たせている。
例えば、浴槽の女の絵は、ピントが合うのは勿論女性の部分であるが、周りに配置された椅子の柄
や壁紙の柄がぼけさせて描かれているとは言え、色彩としてとても美しい。
この二つの描き方の方法が絵全体に緊張感を生みつつ、豊かなで伸びやかな感情を抱かせてくれるものだと思う。
付け加えるとすると、実際のカメラではなく絵なので、ピントが合う点を絵の中に距離は関係なく何点も入れる事が出来る。「バレエの授業」では、このように数カ所にピントを合わせる事で、構図や絵を観る視点を向かわせようとしているように感じる。

ふたつめは、題材の切り取り方の視点である。今回の目玉の「エトワール」の踊り子に象徴される美しさ。一瞬の切り取り方。いわゆる決定的瞬間を見い出すのが上手いのだ。それは多く扱った題材と表裏の関係にあり、バレエや馬のような肉体的美しさが際立つものをより効果的に、どのように切り取ると美しく見えるのか、見せたいのかをきちんと研究した成果である。上手いというより研究、研鑽を重ねた上に成り立つ視点と言える。美に対する考察を貪欲に取り組んで作品を作り上げているのだ。
それは、アトリエに残されていた多数の立体からも伺い知る事が出来る。
浴槽の女もかなり不思議な切り取り方だと思う。後姿でかつ、かかんでいるものが多い。
こちらは、裸婦に日常という観点を入れる為に選んだポーズだと思っている。美しさよりも日常の
一コマを浴槽の裸婦で表現する為に。裸婦という絵画では一般的なモチーフで日常を描く。という事をしたかったのだろう。卑猥にならずに肉感的美しさを描く為に選んだポーズだと思う。だから、顔はあえて外すという方法を取ったのだろう。とても面白いと思う。

みっつめは、構図の取り方である。若い頃に古典を模写する事で培った技術をベースに、遠近法と
大胆な構図の取り方で作品をとてもユニークなものにしている。
「エトワール」踊り子と床の配置、余白の使い方、構図を有効なものにする為の光の入れ方など
の構成力がさすがである。(偉そうに書いてるけど、これらが出来る画家が後世に残るのだ)
先ほどの浴槽の女の配置もユニークなものが多い。日本画の影響も受けたという事もあるようだ。ただ、それを自分の中できちんと消化して描いていると思う。

これらみっつの視点と、時代的な変革(と言っても、それは自分で勝ち取ったものが多いんだけど)
で現れたテーマが融合された事で、普遍性をもつ優れた作品、作家が誕生したのだと思う。
そう考えると選んだテーマという視点もありますね。

ドガという画家は、このように複雑な視点を観る側に与えてくれるので、
なんだろう?きっと、いつまでも飽きずに新鮮な気持ちで鑑賞出来る画家のような気がするのだ。
作品の前に立ち、緊張を覚え、微笑みをたたえ、驚嘆し、また再会を楽しみにして別れる。
これから生きていく間に何度会えるか分からない、そのプロセスさえ絵画を楽しむ一部になる
画家だと思えるのです。
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ルノアール 〜伝統と革新〜 [展覧会]

国立新美術館のルノアールの展覧会。
前からかなり楽しみにしていた。
これだけたくさんのルノアールを一度に見れる事などなかなか無いだろうと思っていたから
なのだが、


これから行かれる方もいらっしゃると思うので、少し下げておきます。




それがむしろ裏目に出てしまったような展覧会だった。。
数が多すぎる事よりも作品のクオリティが低かった。。
勿論素敵な作品もあるのだが、なんと言うか明らかに絵としての質が劣る作品が多いと
感じてしまった。
もしかしたら、実際にはそんな事はないのかもしれない(とはやっぱり思えないけど)
でも、中には「これは明らかに本人は世の中に出そうとは思っていなかっただろう。」
というような、下書きのような、書き損じのような作品が平然と飾られていた。
歴史のいたづらの中で、本人の意志とは全く関係ない所で、作品として売買されてしまうような事は
確かにあると思う。ぶっちゃけ売るほうも売る方だが、買う方も買う方だ。
ルノアールという名前だけで、買ったとしか思えない。そんな風にしか見えない作品もあった。

所蔵先を見ると、日本にあるルノアール作品は、全部ここに集まったのではないか?という
位色々な日本の美術館が名を連ねていて、なぁんか、大人の事情もあって飾っているんじゃないの?
って訝しく思えてしまいます。
新美術館はホントでかいからね。まず数を揃えないと。と考えてしまうだろうけど、
しかしあえて、数を絞って、質にこだわったほうが絶対に良いと思う。
人は、たくさん見たいんじゃない。すごいものを見たいんだ。
(昔見たダヴィンチの「受胎告知」が好例)

そして、次に気に入らなかったのは、ルノアールの絵を光学調査したという発表を
展覧会の流れの中で大きくやっていた点。
あれ、あの場所に必要か???
やるならせめて、もう一個の映像コーナーと場所替えた方がいいだろう。
研究に意味が無いとまでは言わないけれど、展覧会で大々的にフロアーを取ってやる事とは
どうしても思えない。
若い頃と歳を取ってからで、使う色の傾向が変わった?、下絵はロングヘアーだったのが、まとめ髪に変わった?So what???
そんな事は、表現をしていれば自明だろうし、絵描きが作品のプロセスや傾向をわざわざ
見せたいとは、とてもじゃないが思えない。
世に出した作品そのものが、評価の対象であり、全てだ!
歴史、文化、という側面から調査を行う事は、必要だと思うし、意義があると思う。
しかし、展覧会の順路の途中で大々的に行う事ではないと思う。

ふたつも指摘したくなる展覧会となってしまった事で、プラスの面は、ほとんど食われてしまった。
実際3枚のポストカードを買って来たけど、カタログは買わなかった。必要ないと思った。
これは、私としてはかなり珍しい事だ。

タイトルの「ルノアール 〜伝統と革新」。
このタイトルは、とても挑戦的で素敵だと思った。
「伝統と革新」というタイトルを付ける展覧会は、飾る作品もそうだが、
展覧会そのものの姿勢が、まさに伝統と革新を持ったものじゃないといけないと思う。
いや多分、展覧会のタイトルというものは、そういう気概を持ってつけらえるべきものなんじゃ
ないだろうか。

最上級のルノアールをたくさーーん見たくなってしまった。
やっぱり日本では無理なのかもしれないな。渡欧したい。なぁ。


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ルーブル美術館展ー17世紀ヨーロッパ絵画ー [展覧会]

いきなりで申し訳無いが、(自分にとっては)つまらなかったなー。という感想である。
しかし、つまらなかった事に気づけた事自体は、かなりの収穫であったと言える。

自分が絵の中に視ているものが、よーーく分かった。という点で本当に行って良かったと思う。
今回の展示は、副題にあるように17世紀の絵画の展覧会である。
この当時の絵画というのは、簡単に言うとパトロンの為の絵。なのだ。
だから、絵というのは、依頼通りに描く事が大事とされていて、自己主張などを入れる余地は
ほとんど無い。
私が、絵に惹かれるのは、この「自己主張」の部分であり、そういう事でこの時期の絵画には
全く惹かれなかったのだ。
ただ、勿論実際には、その自己主張というか、自我が少しあるもの。またテクニックとして、
頭に抜けているものというのは、きちんと心に届く事も知っている。
例えば、今回出展があった画家の中では、フェルメール(しかし今回出展されている作品はそれには当たらないと思う)、ハルス、ラトゥールなんかは、そんな感じがある。

実際、今回は、ハルスとフェルメールを観に行ったようなもんだった。
ただ、少しは違う部分にも期待はしていったのだが、やはりあまり収穫は無かった。
その期待していたハルスとフェルメールも想いが強すぎたようで、あまり入ってこなかった。。
しかし、展覧会自体は、ルーブルの縮小版のようで、決して悪くは無いと思う。
ルーブルの絵画部門に関して言えば、これの100倍位の拡大判みたいなもんだからね。
しかし、100倍なので、あまり伝わらないと思うけど。。
実際、フェルメールを持ってこれたのは、かなり凄い事である。
この絵は、ルーブル美術館のリシュリー翼を示すアイコンになっているんだから。
これと対をなすドゥノン翼のアイコンがモナリザなのだから、その凄さが分かると思う。
日本は、今正にフェルメールの巡回期間に入ってますからね。是非、この勢いで
「真珠の首飾り」やら「天文学者」やらも来て頂きたいと思う。

さて、一番始めに書いたつまらなかった事に気づけた事について、少し文章を残しておこう。
自分が絵から感じたいのは、作家の自己のエネルギーなのだ。と今回はよーく分かった。
この時期の宗教画や肖像画には、エネルギーは、全く入れ込まれていない。
実際、職人的な立場で仕事をこなす。というスタンスで絵を描いていたのだろう。
それに対して、私の好きな印象画の画家達は、絵を作品を抜きん出たものにする為には、
自己主張を描く事しか無かったに違いない。17世紀のようにパトロンが居て、絵を
描けるような環境では無いのだから、それは必須となる。
そうしないともう実際に食えないのだ。
それをやったからと言って、食えるかどうかは分からない。そんなギリギリの中で、
己をカンバスに叩き付けてきたものが、画として表れている。そこに惹かれるのだと思う。
そのエネルギーを確実に残す事が出来たのが、ピカソであり、
生涯その自己を表す為に苦しみ抜き死んで行った、その念が強く残っているのがゴッホだったりする。
そんな個人のエネルギーそのもの。に私は惹かれるのだ。

ただ、そんな事も多くの物に接し、感じないと、分からない事だし、
齢をとる、環境が変わる事で、また見方は変わって来る。
そういう経験、変化を積む事が、人生であり、成長なのだと思う。
ルーブルは、正に「ルーブル」というジャンルで、この世の中に君臨する。
芸術に置ける基本であり、立ち戻れる場所であると思う。
そのような大きな懐を持つ場所がある事自体は、ここで描かれている神達に感謝をしなければと思います。



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20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代 [展覧会]

良い絵からは、音が鳴っている。
静かなものは通低音が、激しいものはリズムやメロディが、
聴こえてくる。

bunkamuraミュージアムのピカソとクレーの展覧会に行く。

行ってみたら、全然、ピカソとクレーの展覧会ではなく、ドイツのなんちゃら州立美術館展であった。
ここの美術館のコレクションで一番充実しているのが、クレーの作品群という事で、それに日本で人気のある
ピカソという名前を付けたみたい。
内容としては、この美術館が所蔵している20世紀初頭の絵画作品の展示となる。

そんな感じだったので、ちょっと拍子抜け。
ピカソはリストを見ると6点。
ま、その中に確かに大作にふさわしいものが2点入っていたから良しとしましょう。

展示の流れとしては、20世紀初頭のムーヴメント(野獣派とかキュビズムとかシュールリアリズムとか)
を分けて、最後にクレーの作品群。
きっと、実際にこの美術館もこのように展示しているんでしょうね。

とにかく、少しイメージが違ったので、単純に画たちと向き合うことにしました。
さすがにドイツの美術館だけあって、知らないドイツの作家もたくさんいたしね。

そんな気持ちで見ていたら、音楽が聞こえてきたのです。
例えば、ピカソの大作「鏡の前の女」。画全体から暖かな風が流れているような美しい通低音が響いていました。
マンレイの絵画作品は初めて見た気がしますが、威厳のあるトランペットの音。
シュールリアリズムの作品たちは、無音という形の音を出しています。
実際にこの運動は、無音を目指していたのだと思う。だからあまり好きではないんだろうな。
あと違うけど、ミロには岡本太郎を感じるね。

名を知らぬ画家で気に入った画としては、ハイム・スーチン「キジのある静物」。ジョルジョ・モランディ「静物(青い花瓶)」
ここの美術館全体としての特色として、静かな作品が多い気がします。静かだけどきちんと鳴っているような。

クレーの作品群は、確かに質・量で圧倒的です。
好きな方にはたまらないでしょうが、私は、この作家をよく知らず、知りたいという意味で(あとポスターの絵が可愛いので見たくて)
行ったので、そこまでキませんでした。
画って難しいよなぁ。というか好きか好きでないかというだけだと思うんですがね。
多分、この展示自体を貫いている静かなトーンというのが、自分に合わないのでしょう。

クレーは静かに可愛い画たちでした。
スプレーを使用したピエロ?とか「黒い領主」とか「ラクダ」とか「宝物」とか「赤いチョッキ」とか
素敵ですよ、確かに。
木漏れ日の入る喫茶店とか、静かな女の子の部屋とかに合う。と思う。
あまり強くない日の光と合うという感じ。

逆に今回は、画から音楽を感じ取れるほど、静けさのある展覧会だったのかもしれない。
これは、この美術館のもつトーンそのものなんじゃないかな。
ある種の特色を持てるという事に対しては、単純に敬意を払うべきだろう。
そこには間違えなく努力があるから。

そんな静かな昼下がりを春の3連休に感じる事ができましたとさ。

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巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡/魂のポートレート [展覧会]

ピカソは、単純に天才でそれ以上に言う事がありません。
もうただただ大好きです。

今回、パリの国立ピカソ美術館が大規模な改修をするという事で実現したこの展覧会。
たしかにここまで多くのピカソの作品を日本で一度に眺める事は不可能でしょう。

ピカソの何がそんなに人々を惹き付けるのか。
そのあまりに多岐に渡る作品群を前にして、昔から常々考えてきた事でした。
ただ好き!でも良いのですが、ここまで好きだと自分の言語でしかも出来るだけ分かりやすく
その真理に迫りたくなります。

そして、私は、ひとつの回答に辿り着きました。

彼の作品からは、彼のエネルギーが放たれているのです。
そのエネルギーが美しく圧倒的で、そのエネルギーに惹かれるのだと思います。
彼の持つ、パーソナルなエネルギー、輝きそのものが、どんな作品からも感じられるのです。

それは、勿論、ほぼ全ての作品から感じる事が出来ますが、その放たれるパワーの量は、
作品によって様々です。
が、他の作家と比べてその量がどんな作品からも全然に多く感じられるのです。

作品に、ここまでエネルギーを定着出来た作家というのは、今まで居なかったし、
もしかしたらこの先も出て来ないのでは?と思います。神の技としか思えません。
数点、もしくは数年の間、自分のそのパーソナルなエネルギーを定着出来る人はたくさん
居ます。
しかし、それを一生、しかも圧倒的な量で放ち続ける事が出来たのはピカソだけなのです。

そして、だからこそ、これだけ作風が変わっても、同じ作家が描いたものだと分かれるのだと
思います。
新美術館の5?のフロアーにミノタウロスや闘牛のシーンが5、6点飾られたコーナーがありました。
時代にも少しズレがあったと思いますが、全く異なる技巧の作品が並んでいたそのコーナーを
少し下がった所から、眺めても、やっぱり、どれもピカソが描いたものだと納得して、そのどれもが
好きなのです。全体から同じエネルギーが放たれています。

ただ、今回の作品展、批判も勘違いも恐れずに言うならば、そのエネルギーの量がものすごいデカイ、
所謂「超傑作」と呼べるようなものは、わずかしかありませんでした。
それは、このパリ国立美術館にある作品ばかりが並んでいるからで、ここの美術館の作品群は、
ピカソが最後まで手元に置いておいた。と、なんかもっともらしい言葉で説明されていますが、
要するに、売れなかった作品という事なんだと思います。ある程度は、本当にピカソが手元に置いて
おきたかった作品もあるのかもしれませんが、わずかでしょう。
だから、個人的には、とても良かった展覧会なんですが、なんとなくピカソだから来た。
というような所謂一般の人向けの展覧会だとは思えませんでした。

数点、その圧倒的なエネルギーを放っている作品もあるので良いのですが、ピカソは下手すると
難解だったりするので、「まぁすごいはすごいけど、こんなもんか。」なんて思われたくないな。
と危惧してしまいました。
ただ実際にはしょうがないのかもしれませんね。
誰とも比較出来ない圧倒的な存在ですから。ここに揃った作品だけでも全然凄いですから。

今回の展覧会で一番良い点は、年代を完全に追えて、それぞれの時代を的確に表す事が出来る作品
が並んでいる点です。これは、このようなピカソ美術館のような所じゃないと出来ない芸当。
青桃色、キュビズム、新古典主義、シュールリアリズム、道化師、その時代の恋人達、
ミノタウロス、彫刻、造形、挿絵、舞台、、、、ホント多岐に渡り過ぎだよ。
個人的には、ミノタウロスとその頃の恋人達との間で作品達が、縦横無尽(って言葉しか思い浮かばなかった)に爆発している所が良かったです。

作品単体としては、今回の展示の表紙にもなっている「ドラマールの肖像」は圧倒的!!!
作品の内容を批評的に見る事は、やっぱり出来ないんだけど、そのエネルギーと
なんやら「完璧!」としか言えない質の高さがあります。
そして、これとほぼ同時期に描かれている(ホント十日位しか離れていない)
もう一人の恋人、マリーテレーズの肖像が、余計この作品をお互いに高めています。
こういう見方は、本展でしか出来ませんね。
あと好きだったのは、サントリー美術館のミノタウロスコーナーの「槍を持つミノタウロス」
墨だけで描いたこの作品は、ピカソの”線”と全体のバランスがとても魅力的な作品。
ピカソはホント好きな所が多いけど、”線”だけでも好きなんだよな。
線だけでもエネルギーと微妙な緩急がある。
ミノタウロスと闘牛の作品は、どれもエネルギー量が多いように思います。
一番自己投影が強い作品達という事もあると思いますが、その力強さには本当に圧倒されます。

あと面白いなー、と思ったのは、フランコ将軍を批判した作品。
本作自体は、漫画のような形を取っているんだけど、その隣に「頭部」という作品が並んでいて、
キュビズムを経た後人物の再構成をしている作風の作品なんだけど、その再構成だけ見ても、
これは、なんてゆうか「さすがにめちゃくちゃすぎだろう」と思えてしまって、
やっぱりそれはそのフランコ将軍を描いた作品で、もうとにかく下衆な男として描いているんだよね。
つまり、当たり前なんだけど、一見ムチャクチャに見える、あの肉体の再構築を行った作品も、
きちんと、秩序とそれぞれの対する感情をそれで表す事が出来るという、
それをピカソのみではなく鑑賞者にも伝える事が出来という、凄さ。
分かっていたつもりでも、目の当たりに見せられると、やっぱり天才とかしか思えない。
あと、これも分かっている事なんだけど、どんな作風で描いても相手が分かって、それがどれも
魅力的な点。新美術館の出口付近にあったフランソワーズの作品達は、それをとても感じられる
素敵な作品だった。線描でも色を使ってもデッサンでも、同じように彼女にしか見えなくて
どの作品の彼女も魅力的。この作品の前で5分位食い入るようにこの絵を見つめていた女性が
居て、とても印象に残りました。ホントどの絵も可愛いんだもの!

ピカソの軌跡を的確に追える本作を見て、ますますピカソの事を好きになりました。
ピカソへの愛は、一生どんどんどんどん深さを増していくばかりで、
その気持ちを支えてくれるだけの作品群と無尽蔵のエネルギーがあるので、安心です。

こうゆう風に、たくさんの作品を見るのも良かったけど、じっくり一品の超傑作とも
対面したくなってきました。
I Love Picasso!
スペイン行きたいなー。
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蜷川実花展〜地上の花、天上の色〜 [展覧会]

友人達と連れ立って、オペラシティに蜷川実花の写真展に行く。

正直に言ってしまうと、決して彼女の写真は好きでは無い。
但し、行ってみると、やはり一級線の写真家らしいプロとしての心得みたいなものは伝わってくる。

今回、それを感じたのは、”絞る”という事。
テーマ自体の選択の幅、距離、作法、点数を絞って絞って絞った上にある
作品群。という感じがした。
勿論、今回目にした作品達もシャッターを押した数は全然多いだろうが、
実際、「撮る」という段になる前に、様々に選択した上で、これらの作品が並んでいる。
という感じをひしひしと感じた。

続けていく上で、作品として出すものに対する覚悟。というかそぎ落としが、時代を重ねるに連れ、
格段に上がっていってるのだと感じた。
その裏には、なんとなくこの人は、もっとたくさんのモノを撮りたいのではないか?
(もしかしたら実際撮ってるのかもしれないし、撮ってないのかもしれないし。今回は、小さな片にしてたくさん並べていた。ここには色んなものが写っている)
色々な興味あるテーマ、被写体が、たぁくさぁんある気がしたのだ。
しかし、それをいざ「作品」とする場合には、テーマも被写体もそれこそ写真の点数も、
ギリギリまでそぎ落とした上に、この目の前にある作品達が並んでいる。という感じがした。

それが、他の写真家より、深い。というか、この人の興味のキャパはもっと広い。ような気がする。
それを全部出さない事が質を高めているのだろう。
その代わり、でもないんだろうが、広告、ポートレイトは、クライアント被写体ありきだろうから、
様々な事をやっている気がする。
そのバランス感覚も含めて、プロの写真家であるな。と感じた。

好きな写真は、チラシにも載っていた桜の散る夜の写真。と地面に散った桜の花びらを撮った写真。
この二枚は、誰でも撮れそうだし、思いつきそうなのに、多分撮れない。それほど美しい。と思った。
ポートレイトは唯一、たけしのが、良かった。極彩色ではなく他のと違ったからかもしれないけど、、、
たけしの一面を良く表していると思った。

さて、あと、これは写真展そのものではなく、個人的に気持ちいいと感じた事で、そこに意図は無かった
んだろうけど、(ここからは展示のネタバレになりますので、気をつけて下さい。)
金魚の部屋が、部屋全体で作品のようで、居て飽きなかった。
片面の壁に大きく水槽内の金魚の映像を流し続け、映像と周りの写真が綺麗に見えるように入り口を
遮光した為に、部屋に閉塞感が生まれ、大きな水槽の中に居るような気になった。
そして、観客自体が水槽の中で泳いでいるように見えた。
壁際に張り付いて、映像を見続けていると、その観客自体が、金魚のように、そしてその閉塞感から
少し空気の足りない金魚のように空間を口をぱくぱくしながら泳いでいるようであった。
暗がりの中、スクリーンの光を顔に受けたりしながら、しばしの水槽を泳ぎ、また次のフロアーに
流れていく。そしてまた、別の金魚達が、この部屋に送り込まれていく。
両脇の写真と映像という構成が、人の流れをこのように魅せるように働いていた。
見事なインスタレーションになっていた。(俺の目にはね)
ひとそれぞれの感じ方の違いだなぁと人ごとのように思った。

帰り、展覧会のグッズをひとつ買った。
こっちはネタバレになるので言わないけど(笑)、このグッズのラインナップはなかなか
良いのではないでしょうか?!

今回のように、自分が興味が無くても、一流と言われる人の作品展は、誘われたら出来るだけ観に行くようにしようと思った。
自分の観賞、感度レベルを上げる為にも必要です。

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フェルメールとデルフトスタイル [展覧会]

想像以上に全体として良い展示であった。
作品を絞っている所と、多分、フロアー構成と人の流れと作品の質と見せ方が完璧に理解出来ている人が
キュレーターとして居るのだろう。
すごい高い満足度!

個々としては
まず、初めの建造物フロアーにある教会の絵がすばらしい!!
卓越したテクニックと描画の創造力。絵のタイプとしては別段好きでは無いけれど、
とにかく創造力がすごい!のっけからこれで嬉しくなる。
次に、天才と謳われたファブリティウスの絵を観る事が出来るとは!!
フェルメールの時代を語る時に必ず出てくるこの名前。
若くして亡くなり現存する絵が少ないと聴いていたから、それこそオランダに行かないと観れないものと
思っていた。
それが4点も来ている!!有名な魚眼の街の絵、レンブラントのような自画像などあったが、
一番良かったのは、兵隊が一人休んでいる絵!
パッと見、写真かと思える光を含めた描画力とモティーフも状況も不思議で観る者に想像力を奮い立たせる。
極端な例として、ピカソのキュビズムのような???が、この絵から沸き上がってくる。
こうゆう絵はなかなか無い。変な絵というのは多いけど、想像力をかき立てる絵というのは。
いやぁ、もうこんな絵に会えて嬉しかった!

そして、フェルメールです。
今回は、なんと7点!!!!
初期から晩年までおさえた圧巻のラインナップです!
個人的見解としては、フェルメールは全キャリアがすばらしい訳ではありません。
しかし、現存する30数点の中に、他の画家には到達出来なかった作品が数点あります。
そんな中、今回は、自分が観た中で最高のフェルメールに出会えました!

『ワイングラスを持つ娘』

フェルメールの特徴である光の技術が遺憾なく発揮されています。
赤のドレスの信じられない色の階調と影。しわの付き方まで一体フェルメールはどうやって
描いたのだろう??想像の中からこれをどうやったら再現出来るのだろう??
そして、大好きな「フェルメールの白」!
フェルメールは青!と世間ではよく言いますが、俺にとっては彼は白!の画家。
青も明らかに入っている、この白の光による変化が、絵を凛と引き立てます。
又、今回観ていて思ったけど、この白の色はやっぱり良く言われているようにカメラを用いて
世界を覗く事によって得られた色なんじゃないかなー、もしや。と思った。
それほど、この白の色は特殊な気がします。それがまぁフェルメールなんですがね。
他の「手紙を書く婦人」の白も階調としては綺麗なんだけど、あの凛とした白ではない。
俺は、あの”白”が観たいのだ!!
「婦人」のこの絵は、ここの白は綺麗だけど、後は少し技量が落ちているように見える。
そして、「ワイングラス〜」の絵をずうーっと見ていたら、少女の微笑みが少し赤ら顔なのも分かってきた。よく観ていると細部が湧き出て主張してくるようだ。
ただ、同時に粗も見えてくるけどね。。少女の腕の塗りが信じられないほど色が均一。
さすがにあまりにひどいので、ここは傷ついた絵を後から誰かが修正してしまったに違いない。
絵を美しいまま長年残すというのは本当に奇跡のような事なのだ。

今回で、合計10点のフェルメールを観た事になる。
ここまで来たら、全ての作品を観てみたいね!まだ「真珠の首飾り」も観てないし。
なんとか生きている間に「合奏」にもお目にかかりたいし。。

あー!しかし至福の時間であった!!
まずはとにかく美術館のキュレーターのすばらしさに感謝したい!ありがとう!

アリガト.フェルメール☆
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土門拳写真展 日本のこころ [展覧会]

土門さんのプリントをちゃんと観るのは初めてであった。
会場の伊勢丹の7Fの武蔵野市吉祥寺美術館は、いや、武蔵野市は彼の故郷の山形県酒田市と友好都市らしい。そんなの住んでる時も知らなかったぞ。

美術館に行って、まず驚いたのは入場料が100円だった事。
この時点で逆に、「この安さでは、あまり良い会場じゃないのかもしれないな。。」と
安さを嘆いた。
が、実際入ってみると、確かに展示室は4部屋の小さいものではあったが、十分見応えのあるものであった。正直ね、多分、あまりのたくさんの作品を一度に観る事出来ないよ、土門さんの作品は。特に古寺巡礼は。集中力がもたないと思う。ので、価格対効果で言うと抜群すぎるくらい抜群!

さてさて、感想をば。
まず、初めに自分が写真に向き合う時は、単純に「好き・嫌い」で観る事にしている。
好きの基準は、あまりにあいまいで広範囲だが、構図であり、被写体であり、関係であったり、色だったり、正直うまく言えないものだ。
だけど、そんな中でも「好き」はきちんと浮かび上がって来るのでそれでいいと思っている。
土門さんの場合でも、それこそ古寺巡礼に限っても、好きという範疇に入って来ない作品も多数ある。しかし、「ものすごーーく好き」というのが、とても多いので、好きな写真家となるのだ。

しかし、今回、古寺巡礼のプリントを観て、好き・嫌いとかの前に、
「すげぇ!!。。。!!!」という範疇に入る作品たちに出会ってしまった!!

写真が動いていた。写真の中で。
仏像に心が入っていて、笑ったり怒ったりしていた。
雪が降っていた。鳳凰は舞っていた。

本で見ていた好きな写真たちは、やっぱり好きな写真でもあったが、プリントとは次元が違っていた。すげぇ写真であった。
ただ、それ以上に本では、それほど好きとか思っていなかった写真も「すげーー!!!」
という好き嫌いを超えた感想を持つしか無かった。。。むしろ、好きな写真よりもこっちのほうが強く心に残った。
プリントや印画紙もものすごく高級なものを使っているのだろう。仏像の場合、基本的に一色バックという事もあるし、良いカメラとフィルムを使ってものすごい色の階調があるというのもあるだろう。しかし、その上に”動”の心、空気が写っている。

千手観音の手だけを撮った写真の手は、常にこちらに手刀が向かって来ていた。
本当に立体写真、立体映画を見ているようであった。

平等院鳳凰堂の鳳凰を茜雲をバックに撮った好きな写真があるのだが、その写真のコメントで土門さんが、「堂内の写真を撮り終えて帰ろうと建物を振り返ったら、鳳凰が動きまくっていて、急いで写真を撮った。」と言っていて、「それ以来、他の仏像等も動いてしまってしょうがない」と言っているのだが、正にそのとおりだった。
この文章を読んだ時は、その心情は十分に伝わっていたのだが、心情ではなく、本当に仏像達は微笑み話しかけてくるし、雪の五重塔の写真は雪が降っているのだ。

こんな写真が、こんな写真が、この世の中にはあるのだ。
決定的瞬間を撮るだけではない写真が!

土門拳を知った事が、やっぱり今頃になって、本当に運命なのだなと、じわっと来た。
一生のうちに手足の指の数(手だけじゃちょっと足りない気がする。)ほどの運命の人の
一人だ。
誰にでもこうやって動いて見える訳じゃないからね、きっと。運命がないと。

他の写真の事も少々。
雑誌の表紙の写真は、企画も構図も文章も面白い不思議な写真。三田佳子が、もうなんだか、恐ろしく美しい。吉永小百合と仏像がそっくりだったり、茶目っ気もあって面白い。
有名人を撮ったシリーズは、好きな写真とあまり好きでない写真がはっきりしていた。
棟方志功の写真はすっごーーく良い。あの写真は気心とか知れてないと撮れないだろうなぁ。
あれも空気が写っていた。
ここには無かったけど、岡本太郎の半裸で画を描いている好きな写真あったのだが、あれを撮ったのも土門さんだと今回知る。やっぱりどっかで繋がっている。

帰りに古寺巡礼の今年のカレンダーを買おうかどうか、かなり悩んで止めた。
あれだけ強烈なオーラを放つ写真を毎日観ていたら、自己嫌悪に陥る気がしてしまった。

しかし、いつか、あのプリントは手に入れてみたいな。。。
ただただ、今回は運命を感じて、感じて、締めの言葉になりませんです。はい。


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「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展 [展覧会]

人生、初フェルメールである。
まず、彼の画について語ってしまおう。

他の同時代の絵たちと決定的に違うな、と思ったのは、なんと言っても「明るさ」
である。
とにかく、他のものは、暗い物が多い。でも、この電気の無い時代の室内を忠実に描いたら、
こんな色になってしまうのかもしれない。
だから、外の光が入る窓の付近の絵が多いというのは、なんとなく納得がいく。
ただ、しかし、そのような同じモティーフを用いていても、このフェルメールの絵は
抜群に明るい。
彼の絵の解釈本などを読むと、遠近法等に忠実に描かれている部分と、あえて、
その遠近法などを破り、絵の見た目の完成度を上げる為にフェイクを用いている部分があるとある。
その意味では、この明るさは、フェイクなんだろう。
しかし、絵を生かす為に、あえて行うフェイクなのだろう。
そして、その効果は、絵の完成度を格段に上げているに違いない。
&そして、その明るさ=光を描く事に、これほど長けていて、かつ独創性をもった画家が、
同年代はおろか、歴史的に見ても希代の存在であったのだ。

その光を描く部分の為に、この絵の所を、何度も並び、離れて見て、とかなり長い時間を
費やしたが、、、、細部まで見るとなると、写真とのほうが全然いいんですよねぇ。。。
しょうがないのだろうけど、油絵特有の表面のギラギラ感で絵が反射してしまい、例えば
スカートの光の微妙な当たり方とかは見る事が出来なかった。少々さみしい。
でもね、本物を見て良く分かったが、俺が、このフェルメールの絵の光の描き方で一番好きなのは、背面の壁である。白の階調と言っても良いが、この明暗の妙は、遠くからでも良く分かった。部屋の隅から、窓の近くから、壁の下へ、上へ、この光の描写は、ちょっと信じられない。
この白=光が、フェルメールの人気だと思う。上記に書いた通り、この光もフェイクが入っていると思う。きっと、こんな風に単光で明暗が付く事はないだろう。ま、外の天気が雲とかあって微妙な変化によって、こんな明暗になる瞬間はあるのかもしれないが、その瞬間を覚えていて、それを表現する為にあらゆる考察と技巧を尽くしたのだとすれば、やはり彼は天才である。

しかし、少し冷静にもなってみた。この絵や他のフェルメールの絵も、絵としての完成度の高さは素晴らしいが、それにしても人気がありすぎじゃないのか?フェルメール。
ここで全体の事も書いてしまうが、正直、フェルメール以外、それほど見る絵って無かった。
ま、自分が印象派以降の絵が、好きなんだなと分かった訳だけど、風俗画ってやっぱり退屈です。歴史的文化的な意義はあるとは思うが、今見るとパッとしない。やっぱり流行画なんだと思う。時代ごとの流行り廃りの中で描かれているものだから、しょうがないと思う。
その範囲の中に、フェルメールも含まれてしまうんだよね。そうなると彼の絵をどれもこれも賛辞しようとは思えなくて、この人気は、絵の絶対的評価とは別の所から来ているのかもな。と
思った。少作、贋作、盗難。。いろいろな物語がこの画家にはあるからね。
そこはね、少し冷静になろう。と思った。

あの唯一無比の光が描かれている絵は、見て回りたいけどね。やっぱり。

しかし、上に少し批判めいた事を書いてしまったが、とにもかくにも、初フェルメールなのである。正直、フェルメールに恋をしていたのである。本を何冊も読み、詳しくなっていたから、上のような事が言えるのである。あの光が描かれている、今回の「牛乳を注ぐ女」よりも、技巧が上がっていると思われる傑作達も、本物をみてみたいなーーと、想像力をかき立てられました。
嗚呼!美しい絵は、ただただ美しい。


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